私が3.11で見たもの。そして目指したもの。

 今日2022年3月11日は東日本大震災からちょうど11年。あの日の災害は東北地方をはじめとした広い地域に大きな被害を与え、その後の日本にも様々な課題を残していきました。そして今も、原発や復興問題、被災者の帰宅問題など、まさに現在進行形で多くの人がその課題に取り組んでいます。そう、今回の記事の題材は東日本大震災です。

 私はこの記事を通して、1人の被災者として、1人の高専生として、今までの私がどのような経験をして何を目指したのかを少しでも多くの方に伝えたいと思い筆を執りました。もし、この記事に興味をもってくれた方がいらっしゃいましたら、あなたの災害に対する思いの足しにしていただければ幸いです。

東日本大震災とは何なのか

あの日あの時まで其処にあったもの

 まず最初に震災以前の故郷と暮らしについて少しお話したいと思います。私は東日本大震災当時、宮城県牡鹿郡の女川町という町に住んでいました。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、女川町は沿岸部の港町。東北沿岸部の例にもれず、東日本大震災による津波で大きな被害を受けました。

宮城県牡鹿郡女川町 – Google Mapより

 また、女川町には国内でも有数の漁業港である女川漁港があり、特にサンマは全国でも有数の水揚げ量を誇ります。そのため活気にあふれた漁港にはあの日も多くの漁船が止まっていたわけです。当時6歳の私にはそんな当たり前の日常と思っていた漁港の風景や街並みが、船、漁具もろとも流されてしまうなんて少しも想像できませんでした。いや、当時の大人たちでさえあそこまでの津波を実感することになるとは微塵も考えていなかったでしょう。

 つまりはあの町、そして東北に住む人々にとって震災はそれほどまでに大きく、記憶に刻み込まれるような出来事だったのです。先述の通り私は当時6歳。今から思えば小学校入学を控えた幼い子供です。しかし、そんな昔に思える頃のことでさえ、そのショッキングさからなのか今でも鮮明に覚えています

東日本大地震。その日私が経験したこと

 そしてあの日はやってきました。2011年3月11日14時46分。地震が起きたそのとき私は家族と家にいました。幼稚園から帰宅しいつもと同じように過ごしていたときのことです。突然ゴーっという音がなって周囲が大きく揺れ始めました。大きな地震の時には地鳴りが聞こえる。その不吉な音は地震を経験したものならだれもが恐れる音でしょう。

震災当時止まってしまった時計(筆者撮影 令和04/03/31)

 そして、地震が起きた時にはまず自らの身を守らなくてはなりません。私は地震が起きた時のセオリー通り、促されるように揺れが収まるまでテーブルの下で身を守りました。女川町は震源地から近い位置にありますから、実際には遠くの地域より揺れていた時間は短かったでしょう。しかしその時間に与えていった衝撃はあまりにも大きすぎたのです。

 実はいうと本震の数日前から前震のようなものがたびたび発生していました。その前震の段階でも震度5弱とそれなりに大きな揺れが生じていたわけで、その揺れの不気味さを知っていた私にとって地震に対する恐怖心は大きく机の下で泣き叫んだのを覚えています

 そしてその後、家族全員で外に出て近所の集会所にしばらくの間避難しました。その間にも余震は続き歩くことすら怖かったのを覚えています。しかし暫くすると、この集会所も危ないということになったのか、それから高台に逃げることになり促されるまま高台へと歩き始めました

 集会所から外に出ると海の方から男の人が数人来て「津波がくるぞ」と叫んでいました。当時の私は津波というものを知らなかったですが、周りの大人の緊張感等からよくないことが起こるのだと幼いながらに感じていました。また、今でも非難するその時の状況を鮮明に思い出すことができます。

 それからできるだけ高いところまで行き少し経って津波がやってきました。当時6歳の私は身長が低く塀の向こうの波の様子は見えませんでしたが、周りにいた人たちは見えていたそうです。自分たちの町が波に飲み込まれてしまう。そんな景色を目の当たりにしてどれだけの思いだったのか、それは被災者にしかわからないことです。

 実は私には何故か津波が発生してから波が引くまでの記憶がありません。こんなアニメや漫画でしか聞いたことしかないようなセリフがまさか自分の身に起きているとは今でも信じられません。

 しかしただ一つ、あの日あの時も雪が降っていたことは確かに覚えています。

 波が引き、母親が雪をしのぐために車に置いていた傘を取りに行くと「車が津波に流されて無くなっていた。」そう言って戻ってきたことがあまりに衝撃的だったからです。その時には初めに避難していた集会所も流されて跡形も無くなっていました。私は数時間前まで知らなかった津波というものがどれだけ恐ろしいものであるかを身をもって体感することになったのです。

津波が去った後には、

 翌日の朝になって外に出ると昨日まで当たり前だった街並みは完全に消え去っていました。大きな船が道を塞いでいたり、高いところに車が乗っかっていたりといった信じ難い光景が広がっている。何とか見つけた私の家の車も同じく高いところにありました。

 あの場にいなかった皆さんがテレビや教科書で見たあの景色。それを直に見つめ、自分の周りで起きている未知の出来事に大きな恐怖を感じました。それからというもの、ひどすぎる非日常の中、何度もくる余震にも怯えていました。

 そして非難した先では近くに住んでいた人と一緒にドラム缶で火を起こし、食事をなんとか確保したりと協力しても精いっぱいで必死の毎日。文字通り日常とはかけ離れた生活に戸惑いが隠せないままの生活だったのを覚えています。またそうした状況のさなか、地震と津波に壊された瓦礫の中で必死に探し物をしている人や亡くなった方を運んでいる様子などを目の当たりにしました。 恐らく多くの人は瓦礫の中を何かを探し回り亡くなった方を運ぶ、そんな経験は殆ど無いままに生きていくでしょうし、そんな光景を目にすることもないでしょう。そんな日本のそしてあの町にあった“当たり前”から大きく外れたその光景に、私は涙が止まりませんでした。

そして今でも。そして今は。

 ここまで読んでくださった方なら薄々お分かりいただけると思いますが、私は今でも地震に対して大きな恐怖心と抵抗があります。地震がくると不安になり涙が止まらなくなってしまったり、手が震えたりします。1人でいるときに地震がきて、呼吸が浅くなってしまったこともありました。

 それほどまでに私の記憶と心に深く爪痕を残した東日本大震災。そして私は、きっとこの世の誰よりも災害の怖さを実感した人々のまた1人であると思います。だからこそ、私はいつもの日常が奪われる怖さと、日常を守りたいという思いを覚えていられるそう考えています。

 そんな私は、中学生になってより安心して生活できる環境を作りたいと思うようになりました。より具体的に言うのであれば災害に強い街づくりをしたいと考えるようになったのです。また、2年前に女川町を訪れたとき、沿岸部沿いの道路が高く造られたり、女川駅が綺麗になっていたりと少しずつ復興している様子をこの目で見て減災、復興にも関わりたいと強く思いました。

 そうした理由から私は明石高専の都市システム工学科を志望、入学し今に至ります。何度も言うように、東日本大地震は私の中で辛い記憶として強く残っています。しかし、辛い記憶として残しておくだけでなく、この経験を活かし、技術者として住みやすい街づくりに貢献したい。今の私はそう考えています。

参考

防災リテラシー授業 – 明石高専(https://www.akashi.ac.jp/csee/class.html)

最後に

 ここまで記事を読んでいただきありがとうございます。この記事はここで最後です。もしこの記事を読んでくださった方の中に、以前よりも震災に関心を持ってくれた方がいれば幸いです。また、その中から復興支援や、災害に強い街づくりに協力してくれる方がいれば今よりも多くの人の命と日常を救うことができます。是非皆さんも災害やその対策に目を向けていただければとてもうれしいです。

 それではお読みいただいた皆さんありがとうございました。

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